三島町には縄文時代のむかしから
人の営みがあったことがわかっています。

比較的古いのは大石田地区の大石田下居平遺跡や、川井地区の佐渡畑遺跡で、縄文中期の遺物が見つかります。
よく名前があがる桑原地区の荒屋敷遺跡は約2400年前ごろ、縄文晩期を中心とした遺跡です。
 
※縄文時代は約1万3000年ほど続いたとされ、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つの時期に区分されます。
 
では、もっとむかし、三島町に人は住んでいなかったのでしょうか?
 
実は、三島町では縄文時代中期(約4000~5000年前)より前の遺跡は今のところ見つかっていません。
五千数百年前、お隣の金山町の沼沢山が噴火して沼沢湖ができました。三島町一帯にはこのときの火山灰が分厚く積もっており、それ以前の痕跡がわからなくなっています。
 
このように三島町では縄文時代の中期から晩期にかけての遺跡がいくつも確認できますが、時代が下って弥生時代に入ると遺跡の数が少なくなります。
 
縄文時代にいくつもの集落があったことはわかっているのに、その後の暮らしの跡が見つけにくくなるというのは不思議ですよね。
突然人がいなくなったのか、はたまた遺跡が見つからないだけで暮らしは続いていたのか。
詳しいことはわかっていませんが、弥生時代といえば稲作が始まったころですから、稲作ができる平地を求めて出て行った人もいたのかもしれません。
三島町ではこのあと、中世(戦国時代)に入るまで遺跡がほとんど見つかっておらず伝説や伝承でしか語られない“空白の期間”があります。
 
それでも、縄文時代の暮らしが今につながっているのではと感じさせてくれるものも存在しています。

ひとつは編み組細工。
三島町を代表する伝統的工芸品のひとつで、バッグや財布などはおしゃれな女性たちから注文が絶えない人気の品です。

荒屋敷遺跡からは、縄文人が編んだであろう縄やカゴが見つかっています。
編み方こそ現代の編み組細工とは違いますが、それでもよく似ていると言います。三島町の誇る職人技が、太古の昔から受け継がれたものだったとしたら、とても素敵なことですよね。
 
また、遺跡からはトチやクルミなど、木の実も見つかりました。
トチはアクが強く、そのままでは食べることができない木の実。今でも三島町では昔ながらのアク抜き法が行われています。
縄文人がどんなアク抜きを行っていたかはわかりませんが、何らかの方法を編み出していたのではないかと考えられています。
 
このように、縄文時代のエッセンスが感じられる生活の知恵や技が、三島町には残っています。
 
かつて、山には、食料はもちろん、道具を作る材料も、燃料も、生活を支える基盤のすべてがありました。
そして私たちが思うより、ずっと豊かで文化的な暮らしが営まれていたのです。
 
三島町を巡りながら、かつてこの地で生きていた人々の姿に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。